景品表示法に基づく表記:当サイトは広告を使用しています。

話すとかわかろうとするとかムダなことはせず、諦めて来た

デス書き込み

この世には、人の心の痛みや苦しみがわからない人間はたくさんいる。
穏やかに話してもわからないやつには、怒鳴り付けてもわからない、そんなやつには、どんな話し方してもわからない、というのも、わかっているつもりだった。
職場でも社会でも、そんなやつたくさん見て来たし、実際、そんなやつにイヤな思いさせられたこともあったし、わかっていた。
だから、うちのくそボケのことも、そういうやつらと同じ、と思い、話すとかわかろうとするとかムダなことはせず、諦めて来た。
けど!!!!!
今回は、本当に、どうしようもなく苦しいしつらいし、これらのことを、身にしみてわかり、恐ろしい。
来年そうそう、姑の命日が来るからと、その話をした。
お義母さんの命日には、お義母さんが好きだったものでも食べて、お義母さんの思い出の話でもしようと言った。
知人のくそばばあに、「同じ気持ちになって、お姑さんのこと偲んで」などと、偉そうなこと言われたが、そんな偉そうなうざいこと言われなくても、自分から、姑の話題を出した。
ところが。
自分は、そういう話をいちいち人にしない、自分の中だけで、自分だけで(母親を)思う、みたいなことを言われた、はねのけられた。
先月は、やつの友人の命日があり、姑の話をした時に、その友人のことも話したけど、やはり、そう言ってはねのけられた。
その友人には良い思いは持っていなかった。姑とも、決して、仲が良くなかった。
けれど、だからといって「人の死」というものに何も思ってないはずは当然、なく、特に姑が亡くなったときは、突然死だったからかなりダメージを感じた。
私の友人が亡くなったとき、共通の友人が何人か集まって、その人の思い出の話をした。
その時会った友人達が、「こうやって友人同士で会って、思い出の話をすることが、亡くなったその人への供養だし、そうやってちょっとずつ悲しみを癒していくんだと思う」ということを話していた。
私もそう思う。私もそうしたい。
たとえ、仲が良くなかった姑のことだってそうしたい。
だから、姑のことややつの友人のことを話したのに、自分の中だけで思うの一点張りで、私の思いを、理解してもらえたり、受け入れてもらえたりすることは、結局、最後までなかった。
前にやつに、つらい思いして元気ない顔していたら、どうしたの?って声かけてもらいたいと思うのが人間だ、私もそうしてほしいということを話したら、つらいことがあるならそっちから話して来い、自分が話したいのに、声かけてほしいって話はねぇだろ、などと言い張られ、声かけてほしい、そっちから来い、と、一日中、堂々巡りの言い合いになり、気持ちが理解してもらえず、泣きわめいたり、キレてその辺のものを投げつけたりした。
その時も、こいつは本当に、人の気持ちがわからない、と、恐ろしくなったけど…
今回は、その時よりもつらい。苦しい。
人が亡くなって、その人への供養のために、その人の思い出の話をすることは…
間違ってるの?おかしいことなの?
そんな気持ちが、理解してもらえない、はねのけられた、っていうことが、本当につらいし苦しい。
たとえば、仕事でつらいことがあったとか、職場にイヤな人がいて、イヤなことをされたとか、そういう気持ちをわかってもらえないことも苦しいけど…
つらい時、声かけてほしいとか、亡くなった人を偲んでその人のことを話したいとか、そういう、イヤなことがあった、ということよりも深刻なことをわかってもらえないのは、本当につらい。
人の気持ちがわからない人間、そういう人間と向かい合っているのは、一人でいるよりずっとずっと孤独でつらい。

0 デスコメント 20

コメント